文章への憧れ

文章に憧れる。

文章とは即ち、その人の内容そのもので、実際には逃げも隠れもできないものだと思う。繕ったところで見る人が見れば看破されてしまう。

石原慎太郎の著書「私の好きな日本人」という本を最近読んだ。石原慎太郎は僕の好きな作家の一人である。その石原慎太郎が大好きな日本人の一人として小林秀雄を紹介している。

そこに小林秀雄が記した、中原中也との最後の会話を描写した文章が抜粋されていた。

『晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙ってみていた。花びらは死んだような空気の中を、まっ直ぐに間断なく、落ちていた。樹陰の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ。一とひら一とひらと散らすのに、きっと順序も速度も決めているに違いない、何という注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。驚くべき美術、危険な誘惑だ。俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果てしなく、見入っていると切りがなく、私は、急に厭な気持ちになって来た。(中略)その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ。帰ろうよ。」と言った。私はハッとして立上がり、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変わらずの千里眼だよ。」と私は吐きだす様に応じた。彼はいつもする道化た様な笑いをしてみせた。』

天才はいるもんだ。凄くわくわくする。